ロータリーの発祥

1890年代はアメリカ社会の変動期で、人種・宗教・文化のるつぼと世界恐慌が利己主義や悪徳商法を生み、犯罪・汚職・暴力が横行していました。新興都市シカゴはその代表でした。そこに住む弁護士のポール・ハリスは孤独と疎外感に悩んでいました。 そんなとき、彼が少年時代を過ごしたウォーリングフォードの村人たちがお互いの職業で助け合って楽しく暮らしていたことを思い出し、実業人による一業一人制の友愛と相互扶助のクラブ構想を思いついたのでした。

1905年、ハリスは友人ら3人とまだ名前もないクラブを立ち上げ、毎週会員の事務所で持ち回りの会合を開くことにしました。輪番としたのはお互いの仕事について理解を深めるためにです。輪番にちなんで、このクラブの名称をロータリーとしたのです。

*****

1890年代は、アメリカ社会の変動期で、あらゆる人種、信条、文化のるつぼと経済恐慌は利己主義や悪徳商法を生み犯罪・汚職・暴力が横行していた。新興都市シカゴはその代表であった。そこには他人への友情と欲求を理解する思いやりはなかった。ポールP.ハリスは孤独と疎外感に悩んでいたとき、少年時代を過ごしたウォーリングフォードで村人たちが楽しく職業で助け合っていたことを回顧し、実業人による一業一人制の友愛と相互扶助のクラブ構想を思いつくが、暫くは実行に移さなかった。

1905年(明治38年;日本は日露戦争中)アメリカでは画期的な組織が誕生しつつあった。2月23日木曜の寒い夜いよいよハリスは親友の石炭商シルベスター・シールと行きつけのレストランで会食しながら、かねてあたためていたクラブ構想を打ち明けた。シールも積極的に賛同し、鉱山技師ガスターバス・ローアと洋服商ハイラム・ショーレーが待つノース・ディアボン街127番地ユニティービルの7階711号室のローアの事務所で落ち合った。4人は真の友情と相互扶助を求めて集まったのである。5人目の会員印刷業ハリー・ラグルスの記録には1904年2月26日創立とある。このように何年も前から何回もクラブ構想は話合われているが、この日が公式のロータリー創立記念日とされている。

2回目はそれぞれ友人を連れてくることを約し、2週間後の3月23日シールの事務所で行われ、会長にシール、記録係にショーレー、文書係(幹事)にジョンセン、会計係にラグルス、進行係に歯科医ウィリアムR.ネフを指名し、クラブの形が整えられ、クラブの名称も検討されたが決定には至らなかった。後に会場持ち回りと役員1年交替システムに気づいたハリスの提案で「ロータリー」という呼称が誕生した。

4回目はショーレーの洋服店、5回目はジョンセンの不動産事務所、6回目はラグルスの印刷所、これが会員事務所で行われた最後の会合となった。1905年作成の最初の名簿には30名の会員が記されている。会員も増え食事を共にするとなると会員事務所持ち回りでは不便となりホテルやレストランに集まるようになった。しかし交代制の原則は堅持し代わるがわる利用された(1922年(大正11年)6月国際大会でメークアップ規定が採択されたため、例会場は現在のように固定化された)。知り合いの輪を広げる親睦と相互扶助の魅力、簡単には入会できないクラブの会員であるというステータスシンボル、この二つの魅力はシカゴの実業人を大きく引きつけ急速に会員は増えていった。

一方、最初からクラブ活動は最も重視されている。会員資格は1年とし、その成績次第で次年度の会員を決めていたほどであったが、間もなく現在の4回連続欠席、または半年間の出席率60%に満たないときは会員資格を失うと変更になった。

創立2年後の1907年に最初の社会奉仕事業でシカゴ市役所に公衆便所を設置した。3年後に2番目のサンフランシスコ・クラブが、その翌年には3つのクラブが結成され、1910年(明治43年)には全米で16クラブ、会員数1,500名に達した。1910年カナダのウィニペグに国外初のクラブが誕生し、ロータリーは国際的になった。

(ポールP.ハリス略伝より)

コメントは受け付けていません。