米山梅吉略伝

米山梅吉略伝

1868年(慶応4年)2月4日、東京芝田村町にて和田竹造とうたの三男として生まれる。5歳で父を失い、母の郷里である静岡県三島に移る。12歳のとき隣村の長泉村の大地主米山家の養子縁組の話が始まる。

文筆立志を望み16歳で養家の意に反し沼津中学を2年で中退し上京、銀座の江南学校に入学、19歳で東京英和学院(青山学院の前身)に転じ米人講師につき語学研修、また東京府吏員などしながら苦学する。

20歳のとき米山家へ養嗣子として入籍し、養家の理解を得て間もなく渡米、苦学しながら8年間留学する。先ず、カリフォルニア州ベルモント・アカデミー高校で大学入学の準備を終え、オハイオ州ウェスレアン大学とニューヨーク州シラキュース大学にて修学、法学を専攻する。

帰国後、勝海舟に師事、東京博文館より「提督彼理(ペルリ)」を出版する。29歳で米山家の一人娘米山はると結婚、日本鉄道会社に勤めるも意を得ず、三井銀行に入社、数回欧米の銀行業務など視察、三井銀行各支店長を経て、42歳で常務取締役に就任する。1917年(大正6年;50歳)10月、政府特派財政経済委員として渡米、ダラスで三井物産の福島喜三次(ダラス・クラブ会員)と会いロータリーの話を初めて聞き、大いに感動する。翌年2月帰国し大正天皇に拝謁を賜り金杯を下賜される。1919年オハイオ州ウェスレアン大学よりマスター・オブ・アーツの学位を受ける。1920年(大正9年;53歳)政府臨時財政経済調査委員(内閣)に任ぜられる。10月20日東京ロータリー・クラブ創立、初代会長となる。

1924年(大正13年;57歳)三井信託株式会社を創立し取締役社長となる。7月初代スペシャルコミッショナー(無地区時代のガバナー役)就任。1925年(大正14年;58歳)信託協会会長、東京商業会議所特別委員ほか公職多数にのぼる。三男二女に恵まれるが長男と次男に先立たれるという不幸に遭遇し、二児を記念して青山学院に記念道場を、立教大学に心理学実験室を寄付する。1928年(昭和3年;61歳)7月RI第70地区初代ガバナーとなる。9月紺綬褒章を受章、10月正六位に叙せられる。1931年(昭和6年;64歳)郷里の長泉村立小学校に米山文庫を寄贈する。1934年(昭和9年;67歳)第一線を退いた後も財団法人三井報恩会理事長、三井信託株式会社代表取締役会長、第15回赤十字国際会議日本赤十字代表委員、財団法人日本結核予防協会評議員並びに監事、「幕末西洋文化と沼津兵学校」再版、「常識関門」、ポール・ハリス原著”This Rotarian Age”の訳書「ロータリーの理想と友愛」など出版、恩賜財団愛育会監事、青山学院に緑岡小学校を設立など多くの社会事業、医療事業、教育研究事業の要職や奉仕事業に貢献する。1938年(昭和13年;71歳)4月勲四等に叙せられ瑞宝章を受章する。

1944年(昭和19年;77歳)9月静岡県駿東郡長泉村下土狩に疎開し、1946年(昭和21年;79歳)4月28日、長泉村下土狩邸にて逝去する。

1952年(昭和27年)11月、日本ロータリーの創設者米山梅吉の功績を記念して、東洋諸国の学生を日本に留学させる東京クラブ奨学事業「米山基金」が企画され、12月可決、1953年に発足した。今や、全国クラブの支持を受け、1967年(昭和42年)に財団法人「米山記念奨学会」となり、現在は世界中から多くの留学生を受け入れている。

「ロータリーの理想と友愛」の最後に「凡そ、ロータリー会員は身分の高下と貧富に別なく、人種に拘らず、宗教家たるを問わず、政治家たるを論ぜず、寛大、忍耐、正義、親切、友誼(ゆうぎ)、親愛を我らの知る最善の小世界の住人に支給している人々に好意を伝へる使節として終始するものである」と記している。

(ロータリー日本50年史、東京ロータリー・クラブ70年、米山梅吉伝より)


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