ポール・パーシー・ハリス略伝

Biographical Sketch of Paul Percy Harris

1868年(明治元年)4月19日、シカゴ市の北62マイル(約100km)にあるウィスコンシン州ラシーン市5番街316番地で、ジョージ・ハリスとコーネリアの二男として生まれる。父母の両家は富豪であったが家庭的にはあまり恵まれず、3歳の時家計困難で兄とともにバーモント州ウェーリングフォードに住む資産家で賢明にして厳格な祖父母に養育される。祖父母の教育と、この町で村人が互いに職業を利用しあって楽しく生活していたことがハリス少年の記憶に残り、後にクラブ構想の発端となる。

幼少時代から高校までは、ハリス自身「いたずら少年」だったといっているが学校での知性と指導力は優秀であったといわれる。祖父の勧めで規律教育のため陸軍士官学校に入学したがここでも指導者としての素質は抜群の成績を収めている。1885年(明治18年)バーモント大学で新入生いじめの仲間という濡れ衣で退学処分を受けるが、後日大学は過ちを認め名誉博士号を授与している。この頃から責任感ある青年に成長した。1887年19歳で名門プリンストン大学に入学するが祖父の死に合い、大理石会社で1年働く。敬愛した祖父の弁護士希望を知り、1889年法律事務所で法律を勉強しアイオワ大学法律学部に入学、1891年23歳で法律の学位取得して卒業。5年間アメリカと世界各地の見聞と職業体験を決意。サンフランシスコで新聞記者、バカ渓谷では果樹園労働者、フレスノではブドウ包装工場、ロスアンゼルスでは商業学校教師、デンバーでは劇団役者と新聞記者、プラットビルでカウボーイ、ジャクソンビルで夜勤事務員と大理石会社、これで2年が過ぎた。1893年(明治26年)ワシントンで新聞記者、ルイズビルで大理石・花崗岩会社、この後念願のイギリスに行くために、船会社の家畜係で労働、干草作り、トウモロコシの缶詰工場、今度は家畜主任となり、数週間で4回も渡英、ロンドンを初め広くイギリスを見聞している。ミシシッピーのデルタ地帯でオレンジ梱包作業、フロリダで大理石花崗岩会社に勤め、ハバマ諸島、キューバ、アメリカ各地、スコットランド、アイルランド、ベルギー、イタリアを大理石の買い付けで回る。後にニューヨーク事務所の支店長となる。祖父母から他人に対する寛容、思いやり、優しさ、尊敬の念の尊さを学んでいたのに加え、この5年間の尊い経験から職業と親睦と奉仕の偉大さを知った。

1896年(明治29)年2月27日28歳で振興都市シカゴで弁護士を開業。当時アメリカ社会は変動期で、あらゆる人種、信条、文化のるつぼは犯罪、汚職、暴力の巣屈で利己主義・悪徳商法が横行していた。ハリスは人間探求を怠らず15年間に30カ所も住居を変え、あらゆる宗教の礼拝に加わり他人の友情と欲求を理解することを知る。1900年(明治33年)秋、ハリスは友人を訪ねロジャース公園を歩きながら友人が何人もの人と出会う度に、屈託ない親しい挨拶、軽い冗談を言い合っている姿には真心と歓迎の微笑みがあり嘘偽りはなかった。しかもお互いに取り引き関係にあることに気づいたのである。シカゴの現状と対照的な少年時代を過ごしたウォーリングフォードでの村民たちの友情に結ばれた楽しい光景も思い出したのである。これがいままでハリスが求めて掴みえなかった「人間の絆」であった。ここに一業一人の相互扶助の新しいクラブ構想が芽生える。

専門職業界を一人で代表することによって社会の為だけでなく、お互いの職業を利用し合うことは会員同士の親睦と相互扶助に役立ち、特に新会員は新たな友人となり、公正な取り引きは信頼感を深める。会員が多くなればこの輪は広がっていく。会員は「寛容で親睦と友情の精神」にあふれた人でなければならない。祖父母から教わった「寛容」に共通している。それがクラブ理念であり、善意と寛容と理解から奉仕へと発展していく基礎であろう。いよいよハリスは実働に移り始めた。もっとも親しい数人の知人にこの構想を打診し始めていた。反応は良好であった。いよいよ1905年(明治38年)2月23日の夜に他3名と世界最初の奉仕クラブ「ロータリー」を創始した。

創始3年目にクラブ会長となる。1910年(明治43年)7月2日スコットランドのエジンバラ出身のジーン・トムソンと結婚。ハリス42歳、弁護士を開業して14年目、ロータリーを創始して5年目の夏である。1912年8月「全米ロータリークラブ連合会」を結成、初代会長となる。ハリス44歳のときである。更に1922年(大正11年)には「国際ロータリー」と改称され目覚ましい発展を遂げてきた。ハリスはシカゴ郊外に居を構え夫人の郷里の街の名をとりカムリー・バンクと名づけ、生涯の居とした。また旅行に多くの時間を費やし、頼まれて夫人と共に世界各国を何回も回り毎年の国際大会、地域大会、地区大会などで多くの講演を行い、生涯をロータリーの発展に捧げた。「国際ロータリー」の初代会長であり1947年(昭和22年)1月27日(月曜)78歳で逝去したときは名誉会長であった。シカゴ市マウント・ホープ墓地に眠る。その執務室は世界本部にそのまま保存されている。

ハリスは終生にわたり、法律事務所の仕事を熱心に続ける傍ら多くの公職にもあった。全米身体障害児童および成人協会並びに身体障害児童国際協会初代会長、シカゴ弁護士協会理事、アメリカ弁護士協会の委員会委員などなど、更にハリスの功績に対しボーイ・スカウトのバッファロー銀章、フランスからレジョン・ドヌール勲章、同種の賞のなかでもアメリカ最高のシカゴ市善行賞、外国からはブラジル、チリ、ドミニカ共和国、エクアドル、ペルーなどから栄誉ある勲章を授与されている。

ジーン夫人は信仰深いトムソン家の8人兄弟の5番目、女としては二女で、すばらしく魅力的な女性だったといわれる。37年間ハリスに連れ添い、ロータリーの発展に努め、ハリスの世界中のロータリー講演旅行(ハリスのテーマは理解と友情、またはロータリーの起源が多かったといわれる)にはいつも同行し、何度かハリスに代わって講演もしている。ジーン夫人はエジンバラで晩年を送り1963年11月9日逝去、82歳。ハリスとは海を隔てて何千キロも離れたエジンバラ市ダルキース・ロードのニューイントン墓地に先祖とともに眠る。その墓石には「常にかわらぬ信仰と豊かな慈愛の心をもった婦人」と刻んである。

二人は子供に恵まれず、ハリスの自叙伝には「子供がいない私たち夫婦は国際ロータリーを養子にしました」と書いている。

(ポール・ハリス —– 偉大なる奉仕の先覚者より)


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